ラジコンファンの皆さまごきげんよう。
今日のテーマはキッズレーサー。
親子で始めたラジコンで、なんかうちの子上手いぞ、速いぞ!となり、
レースに出してみたら大人の中でも中々の速さ。
「才能のカタマリじゃね?!」
こりゃあレーサーとして育てたら…これはもしかして、もしかするのでは??
とありがちな欲が出て、かつ本人も楽しいし、やる気満々な場合に
陥ってしまいがちなお話です。
まんまわが家の話。
いきなり結論
![](https://i0.wp.com/metabonzradio.com/wp-content/uploads/2023/07/img_0718-1024x804.jpg?resize=1024%2C804&ssl=1)
レーサーをやらせたい、と最初に思ったパパ自身のエゴを自覚すべし!
「子どもがやりたいって言ったから」
ノンノン。子どものせいにしてはダメ。
子どもは楽しいこと、面白いこと、ワクワクすること、褒められることが大好き。
「ボク、上手いねぇ、凄いよ!」
何人もの大人にそんな言葉をかけてもらえて舞い上がらない子どもは少ない。親もだが。
そりゃ、やりたい!って言うのは当たり前。
レーサーにさせたかったのは自分自身である、と自覚しなおすこと。
我が子を活躍させることで、いわば代理でカタルシスを味わいたかったのだ、と思い知ること。
競馬の馬主の気分に近いか。
子どものレースは親のエンタメ。
厳しい言い方だが、それが真実だと知ること。
ある程度の向き不向き、センスの差はあれど、子どもの反射神経、学習能力、集中力の伸び方は大人には全く理解不能。ある意味凄まじい。
あっ、という間に速くなる。
どんどん速くなり、結果を出すようになり、周りの人も巻き込み、さらにヒートアップ。
その頃には子ども自身がもはや、レースで勝つことに心を奪われているだろう。
それをつい本人の意志だからと言ってしまう親。
しかし、そう仕向けたのは他でもない自分自身であるという自覚はやはり必要だ。
何故なら、
子どもにとって貴重な人生の時間を親のエゴで奪ってしまっている、とも解釈できるからだ。
本当は友達と遊びたかった。
本当は身体を動かすスポーツがしたかった。
本当は家族で出かけたかった。
もしかしたら、そうだったはずなのに、親である自分が夢中になり、子どもを巻き込んでいただけなのではないか。
誘導したのではないか。
子どもはなかなか自分の本音を言えない。
上手く言語化できない。
やれば親が喜ぶし、やらなきゃいけない気がするし、やれば楽しいし・・でも、でも。
ラジコンのレースは長距離移動及び、多大なる時間、体力、お金を要する趣味であることは間違いない。
その陰には、家族の時間、友達との時間、本当にやりたいことの時間が奪われていたのではないか。
実はこのことは嫁氏に常々言われていた。
「あんたがやりたいだけなんでしょ?」
そんなことはない!と言い返していた私。
ふと立ち止まって考えたい。
何かの代償になっていないか?
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子どもの活躍は嬉しい。
運動会や発表会でビデオを構える親の気持ち。
「凄いね!よくやったね!」
しかし、あるところから欲が出てくる。
「あの場面でもう少しさ・・・」
「もっと集中して!!」
口をついて出るアドバイス。
もうこの瞬間、自分ならこうする、こうして欲しいが始まっている。一緒に戦っている。
ラジコンレースと同じような光景をクラブチームの陸上大会でも目にした。
戦うのは子ども。熱くなる親、コーチ。
もちろん子どもたちは自分自身と、ライバルとの戦いに夢中だ。
なんだ同じじゃないか。さっきも書いたが、親のエンタメじゃないか。
少し覚めた自分がいる。
ふと思う。
もう、人生後半戦。
何にでもなれたハズなのに
確かに今幸せなのに
「こんなはずじゃなかった」感満載の人生。
(バンドで当ててお金もちになりたかった笑)
ならば子どもに夢を!
子どもを使って自己実現?
可能性を伸ばしてやりたい。育てたい。
の裏には明らかに自分の願望も乗っかっているのかもしれない。
対話を繰り返す中で
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それでもレーサーにしたい。
全日本などビッグレースでひとかどの成績を納めさせたい。
そう思うか。(まだ思っている 笑)
「今、あんまり気分が乗らないんだよね。」
レースが近くなって息子が言った。
そのとき、「あ、レースやりたい、やらせたいのは自分だったんだ」気づいてしまう。
なんとかレースに前向きになるように仕向けたい自分がいた。
「せっかくの速い人と走るチャンスなのに」
また、逆に
ホッとしてしまっている自分にも気づいた。
実は自分もラジコンを触る気になれなかったからだ。
追い立てられるように、メンテ、タイヤ、とやって来たが、少し息切れして来たのもある。
「なんだ、自分自身、レースに疲れているじゃないか」
子どもの為、子どもが活躍する為に、と自分を奮い立たせて来たが、
それは取りも直さず、自分の為でもあった。
かなり濃い時間を親子で共有して来たのは間違いないが、主導権は明らかに自分が握っていた。
レーサー自身がやりたくなったら
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何故今こんなことを書いているかと言えば、
今、私自身全くラジコンに対する興味が湧かないからである。
ちなみに気分が落ちているとか、そういうのは全くない。至ってニュートラル。
定期的にそうなるので、だからどうした、というわけではないが、
こういう時こそ、立ち止まって考えるのも必要だと思うのだ。
この小学生最後の夏休みが始まる時、
私のエゴでラジコン一色の夏休みにしてしまうところだった。
(サーキット行脚ツアーを考えていた)
一度リセットして
夏休みにしかできないことを、まず自分自身と。
そして、子どもと向き合ってやってみようと思う。
そして、子ども自身がどうしてもラジコンやりたい、レースやりたい!と言うなら
全力でサポートして行きたいと思う。
最後に。
ラジコンを含めた趣味もスポーツも実は究極的には気晴らしである(諸説あり)。気晴らしが義務的なもの、やらなければいけないものになった途端に何か違うものになってしまうのだと思う。
大切なのは良い意味でのユルさかもしれない。